正義を旨とし、仁愛を完うする ── 真勲別のタウンミーティング
 移住者の入植はむらづくりの第一歩でもありますが、北海道のまちむらの多くは開拓者の自治によって生まれました。そのことを示す手がかりが『上川町史』(1966)にありましたのでご紹介します。

入植地の自治

 

[上川] 正義を旨とし、仁愛を完うする ── 真勲別のタウンミーティング

 

長い歴史の中で自然発生的にうまれた本州の町村と違って、北海道の町村の大半は開拓の時代に始まりました。移住者の入植はむらづくりの第一歩でもありますが、右も左もわからない原生林を切り拓く中で、まちはどのようにして作られていったのでしょうか? 北海道開拓は官依存といわれますが、やはり官の強力な指導だったのでしょうか? そうではりません。北海道のまちむらの多くは開拓者の自治によって生まれました。そのことを示す手がかりが『上川町史』(1966)にありましたのでご紹介します。

 

 

■入植2カ月目の真勲別現住者規約

上川町菊水は国道39号と石狩川を挟んだ反対側に広がる農村地域です。菊水は後年に改められた地名で入植時は真勲別と呼ばれていました。明治39(1906)年から入植が始まり、長野、愛知の内陸地方からの人たちが多く、東北からは宮城、岩手から若干名が入植しました。特徴は団体入植よりも単独入植者が多かったことです。
 
4月の雪解け頃に入植開墾が始まりますが、わずか2カ月後の6月5日に早くも全入植者をを集めた会合が行われました。この時に「真勲別現住者規約」という決まり事が作られます。原文はカタカナですが読みやすいように平がなにしています。北海道でまちむらがどのように生まれたのかを示す貴重な記録と思います。
 

真勲別現住者規約
 
(第一条) 
真勲別現住者、生存必要により規約を締結し、万事協議の上、議決を実行するものとする
 
(第二条) 
真勲別組合と称し、公私の便を計り、事務の整理を処便する為の理事者を設定し、その筋の請願認可を経由する任務に当たらしむ
 
(第三条) 
組合員は共同和楽を友とし、正義を旨とし、仁愛の行為を完うする者とする
 
(第四条) 
農事を奨励し、衛生を重んじ、公私の便宜を計り、行動を完美ならしむ
 
(第五条) 
組合員にして不整の行為ある時は、発見人その事由を理事者に報告し、理事者は一応可否の事実を訊ね、その筋の裁可を仰ぐ手続きを為す責任を任ず
 
明治参拾九年六月五日 現住者一同集合協議の結果決定するものなり、署名捺印す [1]

 

■共同和楽、正義仁愛──これが北海道の開拓者精神

アメリカの開拓期に、入植者たちがまちごとの自治組織=タウンミーティングを設立して自治を行ったことが、アメリカ民主主義の原点であるとしてうらやましげに語られます。名称こそ異なりますが、北海道においてもまったく同様の自治組織が入植者たちによって作られたことがわかります。
 
なかでもこの規約にうたわれた「共同和楽を友とし、正義を旨とし、仁愛の行為を完うする」「公私の便宜を計り、行動を完美ならしむ」といった文言は、私たち道民が受け継ぐべき北海道の開拓者精神そのものと言ってよいでしょう。
 
詳しく見れば、入植者のコミュニティを「組合」として整理し、理事者を選定するものの、意志決定は入植者全員による「万事協議」によるものとしています。また組合内で「不整の行為」があった時は、直ちに当局に通報するのではなく、理事者が当事者に事情を聞き、その判断をまってから理事者によって通報するものとしています。公の指導よりも住民の自治を優先した規定ということができます。
 

■1年目に20数回のミーティング

『上川町史』によれば、6月5日に初のタウンミーティングの後、12月末までに20数回の会合がもたれたということです。入植1年目と言えば大木と格闘していた頃です。少しの開墾作業の遅れが来年以降の食糧不足を招くという状況にもかかわらず、入植者たちは機会あるごとに集まって村づくりを話し合いました。
 
真勲別部落の運営の様子がわかるのは、議事録である「決議簿」が入植直後の6月から昭和15(1940)年まで、いくつかの欠落はあるものの、おおよそ残されているからです。
 
(とは昭和41(1966)年の『上川町史』ですが、今もあるかはわかりません。とても心配しています。これ以降、開拓の排斥が進みました。北海道百年記念塔ですら解体しようという北海道です。貴重な〝開拓遺産〟が日に日に失われています)
 

■理事者細田庄太郎

なお真勲別組合の理事ですが、
 
恰度この三十九年は、母村愛別村が二級町村制(それまでは戸長制)を施行した年で、村内行政にも大きな変りがあった。一戸長のもと二名の総代人による議決機関が選挙による八名の村会議員制へ、また十三部落の組長による部落行政推進が部長制へと変った年であった。
 
真勲別部落組長も初会合の六月から組長制が布かれるが、やや遅れ九月十三日香山代次郎が公選され、十二月まで在住。その直前十一月二十五日、部長制への前提として組長制を解散し、部制規約の準則が示されたところで十二月二十日初の部長を公選され第十三部長細田庄太郎(36歳)が就任する。[2]
 
とあります。この細田庄太郎が「真勲別現住者規約」にある理事者だったようです。細田庄太郎は明治39(1906)年4月25日に長野県から入地しました。詳しい経歴は書かれていませんが、『上川町史』380pに
 
真勲別における稲作は、越路・上アンタロマ、留辺志部等の入地より若干遅い関係上、明治四十年が創始である。細田庄太郎が真勲別八線二号に試作田一枚を手がけ、おんこの標杭に「愛別村第十三部落水稲試作田」と墨書したという。この試作田成績は割合に良好であったので、四十二年には二枚の田に拡張する。[3]
 
とありますから、真勲別における稲作農業の創始者でした。
 

上川町菊水の大雪高原旭ヶ丘(出典①)

 

■第1に道路、第2に学校、第3に墓場

入植1年目の真勲別タウンミーティングのテーマは次のようなものでした。
 
この年の眼目は、第一が「仮道路の開削」、第二に「子弟の数育場」、第三に「墓地の設定」、第四に「新設物件及び経常費の支出収入法」、第五に「通信の便」、第六に「公共用地の運営」、第七に「鎮守の社」と、道路とも関連の架橋問題。これがこの移住地初年の問題としてさまざまに方策がめぐらされていく。[4]
 
第一に道路が挙げられるのはわかりますが、それに続いて「子弟の数育場」が挙げられていたところに、開拓者というよりも日本人の教育に傾ける強い意志が伺えます。
 
第三に「墓地」が挙げられるのは、いつ命を落としても不思議ではない開拓地の苛酷さを反映したものでしょう。
 
第四と第六が自治組織の萌芽です。入植者たちは共有財産を設定し、その運用益によって自治を行おうとしました。これが発展して、私たちのまちむらになっていきます。
 
第七の「鎮守の社」は神社の創建です。入植者たちは〝ここにわれらのむらを築こう〟と決意するとき、その象徴として必ず神社を健立したのです。
 
 
 


 
【引用出典】
[1]『上川町史』1966・364p
[2]『上川町史』1966・367p
[3]『上川町史』1966・380p
[4]『上川町史』1966・367p
 
【写真出典】
①北海道上川町公式サイト>観光スポット 
https://www.town.hokkaido-kamikawa.lg.jp/mobile/section/sangyoukeizai/chs812000000145f.html