タウンミーティング「ルベシベ住民大会」
壮絶な開拓の試練に打ち克った開拓者たちは村を建てます。『ニセコ町史』1982に、開拓者たちはどのように村をつくったのかを示す貴重な記録があります。アメリカ開拓時代に全住民参加のタウンミーティングが開かれ重要なことが決められましたが、北海道でも同じく「住民大会」が開かれ、住民の総意によって自治が行われました。北海道開拓は上から上意下達で自治の精神が乏しいと言われることがありますが、ニセコの「ルベシベ住民大会」はそうした批判を覆すものです。
  

 

■第1回ルベシベ住民大会

ニセコ町の開拓は明治28(1895)年から始まりました。開拓が順調に進み、明治34(1901)年に真狩村から独立、狩太村となります。開拓が進展すると役場や学校、公共施設が必要となってきます。そこでニセコ地区に入った全入植者があつまり「住民大会」を開いて全員参加でそれらの課題を議論しました。下記は『ニセコ町史』にある記録で、開拓初期に活躍した宮田農場管理人・金房妙証の日記を元に大会の様子を再現したものです。
 
本町は明治30(1897)年から急激に発展してきたが、まだ各農場とも甲乙のない発展ぶりで、どこに市街らしい施設が設けられるかも判然としなかった。しかし分村の気配はすでこの頃のから感じられていたのであろう。
 
明治34(1901)年9月17日佐村農場事務所で佐村農場主や宮田農場主の発起で新設役場の位置や簡易学校設置などに関する「第1回ルベシベ住民大会」が開かれた。これが本町における政治運動の最初である。
 
今その大要を金房日記から引用して次に掲げることにしよう。
 

大会順序
 
1 式辞
2 開会の趣意
3 各自の演説若くは祝辞
4 会議
1新設役場位置につき道庁、支庁に陳情する事
2簡易学校急設を役場に促す事
3学校基本財産として未開地貸付を出願する事
4村医招聘の件
5郵便局設置請願の件
6巡査駐在所設立請願の件
7寺院設立に関する件
8墓地出願の件
9神社建設の件
10その他意見随時提出の件

 

本日はルベシベ住民大会につき、予も出席し大会記事及び会計等受持つこととなり、午前9時頃より佐村農場事務所に至る。発起者場主宮田氏、佐村義介氏、松崎徳太郎氏、菱田房吉氏などの有志とはかり万事に周旋す。
 
この日集会の住民69名、未開地において始めて催した会としては実に盛んなる大会なりき。まず入口に国旗交差し、席上には討議の条項を掲げ、演壇を設け、諸事型の如く整備し、午後2時というに開会、第一番に登壇し、下記の式辞を朗読する。

 

式辞
 
真狩村字ルベシベの地たる本村西隅の一小部落に過ぎずといえども土地肥沃にして、丘陵の起伏少なくまた天然に富源の美を備う。
 
実に真狩原野重要の地を含む、推して知るべきなり。しかも、開拓は日なお浅きにもかかわらず、移民の競って増殖する年一年を争う。これ先輩諸氏の奨励住民協同一致事業に熱心なるに因り、日々に地積成功を奏す。
 
戸数今やほとんど200に達せんとす。誠に旺んなりというべし。しかりといえども百事創業の地に属する戸長役場に、学校に、警察に、社寺等の設立にいたるまで目下の急務にして、住民の努力を要すること切実なり。
 
しかるにおいて本日大会を催し、各自討議の結果、請願の目的貫徹するに努力せられんことを望む。即Iか鄙言を述べて式辞とす。

 

続いて口答をもって議事の次第を披露し、終わって佐村農場主登壇、大会の趣旨を20分余演説せられる。次いで同氏及び夫人の両人にてオルガンをもって「君が代」を合奏す。右終わって宮田農場主、登壇開会の趣旨及び行政上につきとうとう50分あまり弁ぜらる。その要所要所にいたっては聴衆拍手喝采場にあふる。[1]

 

■第2回ルベシベ住民大会

「第1回住民大会」で決められたことは、学校、役場、寺院の建設、医療、郵便、警察など自治の根幹にわたる事柄でした。この時、今の各農場の中間に位置するニセコ町元町に役場を設けることが決められました(役場は鉄道開設によって明治38(1905)年現在地に移転)。ニセコ町はこの大会の決定によって生まれました。続いて入植者たちは「第2回住民大会」を開いて、特に鉄道と道路の建設を当局に強く求めることを決めます。
 
この大会の結果、議決した各項はそれぞれ委員をあげて陳情請願をしたが、続いて11月3日、再び佐村農場事務所において「第2回ルベシベ住民大会」を開催した。その議題は第1回の決議による運動の結果報告と討議事項として
 

1 ルベシベ停車場の設置を北海道鉄道会社に陳情請願の件
2 ルベシベ公用地へ市街地設置を其の筋へ請願の件
3 ルベシベより硫黄山を経て岩内に通ずる道路開さく請願の件
4 学校敷地設定の件
5 寺院設定の件
6 総代人予選の件

 
などであった。
 
当時線路は尻別川沿いでなく、昆布から今の元町方面を通過する形勢であり、駅や市街をルベシベに設けようとの意図であったものらしい。また硫黄山を経由して岩内にいたる道路は、昭和51(1976)年にようやく自動車道が実現されたが、諸取引が全部倶知安経由岩内だった当時、歩行か駄馬かに頼っていた頃とすれば切実な要望であったのだろう。
 
明治35(1902)年4月5日、「第3回ルベシベ住民大会」を宮田農場事務所で開いたが、学校の位置問題で紛糾し、要領を得なかった。しかし、この時代に3回にわたって住民大会を開き、世論に問うたことはなかなか進歩的であったと思う。[2]
 

■第3回ルベシベ住民大会

「第2回住民大会」では最大の案件であった教育所の建設について合意が得られなかったようです。おそらくは役場位置で妥協した地域が学校はわが地域にと主張したようです。そこで4カ月後に第3回住民大会が開かれます。しかし、位置の問題に加えて資金の問題もあったようです。ここでも合意が得られずニセコの学校建設は宙に浮いてしまいました。そこで見るに見かねた金房妙証が名乗りを上げます。
 
明治35(1902)年3月25日、佐村農場事務所に77名が参集して教育所建設問題などについて「第3回ルベシベ住民大会」を開いた。
 
第1原案の教育所の位置の問題で議論百出して、互いにゆずるところなくこの日は流会となった。
 
次いで同月29日に金房妙証は「もしこの簡易校設立達成されれば私は3カ月間無報酬で教授の任に当ってもよい」と述べている。この言葉に感激した佐村は「君の意志を聞いて、この事務所を解放し校舎として寄付しよう」と応じたのである。
 
これに賛同する者が多く、4月5日開校を目途に諸準備をととのえることに決定した。そしてこの旨を戸長に連絡に行ったが不在のため、認可の下るまでは、私設教習所とすべきであると話し合った。4月4日、開校日の前日教材、教具を借り受け児童に配布のまんじゅうを注文した。
 
4月5日、開校式が行なわれた。佐村場主の話により国旗を交叉し、金房は児童学籍簿、教場日誌、会計簿を作る。出席者は児童が32名、父兄は34名に及んだ。
 

■佐村教育所の開校

役場位置で妥協した佐村農場の主張が通り、教育所は佐村農場の場所に作られます。官に承認を求めに行ったけれども会えなかった。ならば独自に開校してしまえ! というところに開拓者のバイタリティを感じます。この学校の開設には金房妙証の長男司君が大活躍しました。
 
佐村は教育の趣意について熱情あふれる語調で演説し、児童代表金房司(金房の長男)が次の祝詞を朗読して式を閉じた。
 

それ教育は文明の花にして1日も欠くべからざるものなり。しかりといえども、本道のごとき未開の部落にあっては、習うところの師と教場なきを悔めり。今や父兄は、我等少年児童のために簡易教育を施さるる誠に喜ぶべく、祝すべく、本懐の至りにあらずや、ここにおいて我等少年はますます奮って精励勉学して国のため、親のために一身を立て、忠孝の道にそむかざらんことを誓うものなり

 
この時の生徒に入倉坂治らがおり、教師はもちろん金房妙証であった。彼は児童教育については経験がなかったため苦労が多く、ときには、自己の不完全さを自覚して倶知安に実習に赴いたりした。
 
この時の教授課目は書写、唱歌、随意課目であった。唱歌は「君が代」の練習に明け暮れたようである。時には場外教授と称する今の遠足に似たものがあったようだが、生徒の中には6~7歳の子供もおり、子守のような仕事も必要な教師の職責は容易でないものがあった。
 
なお、明治34(1901)年9月の「ルベシベ大会」には佐村がオルガンを弾ずると当時の記録にあるので、この教育所では、すでにオルガンを利用したものと思われる。
 
4月10日、役場移庁式に生徒を引率して出向き、佐村教育所設置の披露をなし、次いで正式な学校の設立を要望している。金房司の祝詞を部分的に紹介する。
 

時是明治35(1902)年今月今日とし、本村戸長役場移庁式を挙げらるるに際し、10有余名の生徒、師に伴なわれ…………幸いに父兄諸子は我等児童生徒のために、ルベシベにおいて簡易教育所を設け随意科目の教授を施さる。怠りなく勉学するも、未だ小学校の本課を全うするに足らざるを遺憾とす。今や本村行政の整備と共に1日も早く尋常高等小学校の設立を急にし、我等少年児童のために、学習の知識を充実せしめんことを望むものなり。ルベシベ教育所生徒総代、金房司再拝

 
この佐村教育所は、この年の6月まで続いたが、川上教育所が開設されるに及んで閉鎖した。[3]
 

■川上教育所と川上祖伝

佐村教育所はすぐに川上教育所に吸収統合されます。この教育所の成り立ちも開拓期らしいドラマです。越後の僧侶川上祖伝の活躍によって作られました。この学校は平成2(1990)年に廃校となった「福井小学校」の前身です。
 
本教育所の教師川上祖伝は、越後の国より来た僧侶であった。あちらこちらと寺を移り歩いて生活し、ある時子弟の教育者を探し求めている者と出会い、縁あって師と呼ばれるようになったのである。彼について少し紹介してみよう。
 
川上祖伝は日清戦争と日露戦争の両大戦に出陣した人物で、日清戦争の後、志を立てて東京で勉学、その後自力でお寺を建てようと努力していた。本道に渡ってからもその信念に燃えていたが、こと志と違いむなしく諸寺をまわり続けた。
 
この時相馬部落の斎藤、岡田等の話もあり、子弟教育の仕事を引き受けることになったのである。川上教育所が設けられた場所は相馬集会所の近辺であった。時は明治36(1903)年4月、建物はガンビの皮でふいた屋根、割板を用いた壁、その隙間はイナビキのからで覆い、その中央に炉を仕切って勉強したのである。
 
彼はまだ独身であったので、その一隅をむしろで区切って押入れとして寒さにふるえながら一椀一汁の生活を続けたらしい。
 
その翌年になって妻をめとり、人間らしい暮しを営んだが、間もなく日露戦争の召集令が下り、この教育所は閉鎖される運命となった。時に明治37(1904)年11月である。
 
彼は無事に帰還し、その後昆布に大林寺を営み、ついに初期の目的を達したのである。長命で文化の進展に驚きながら昭和30(1955)年1月、87歳で死去した。[4]


 

【引用出典】
[1]『ニセコ町史』1982・125-127p
[2]『ニセコ町史』1982・127p
[3]『ニセコ町史』1982・484-485p
[4]『ニセコ町史』1982・485-486p