谷地(やち)が畑によみがえることが唯一の楽しみだった
新型コロナで非常事態宣言が出されました。こんなときこそ我らの父祖の苦労を偲びましょう。私たちにはもっと大変な苦労を乗り越えてきた父祖の血が流れています。昭和31年の『厚真村史』掲載の「古老回顧談」を今日と明日のわたってお届けします。


 

火縄の鉢巻をして田植や草取りをした

飛谷シイ(83歳)

火縄(出典①)


  明治24(1891)年、富山県から夫長太郎と共に札幌に来て3年程いて、夫は追分駅に25銭の円給で勤めたが、西老軽舞の旅館主丸岡タケに呼ばれて、追分から入地して酒や石油などを売っていた。それから知決辺の本郷嘉之助の農場の監督となり、開拓に従事した。谷地原には「ブヨ」やヤブ蚊が無数にいて、息もつけないくらいであった。それで腰に火縄を付けたり、頭に火縄の鉢巻をしたりして田植や草取りをした。[1] 
  
 

村上イトマシテは旅館を営んでいった

山川新吉(85歳)

 20歳の時、故郷徳島から室蘭に来た。それから明治26(1893)年頃、西老軽舞に来たが、当時は田中又吉が商店を開いて広川久吉が薬屋をやっていた。アイヌは10戸ほどいた。和人は脇田為蔵、長谷川丸太郎、中村福太郎、丸岡タケ、木村久助、成田三之助、永谷仙松、加藤善蔵等がいた。そして村上イトマシテは高台に当時としては立派な建物で旅館を営んでいった。[2]
 
※立派な旅館を営んでいた村上イトマシテはアイヌです。[3]
 
 

あまりのみすぼらしさに自然に涙が出た

亀井スラ(77歳)

  自分は明治29(1896)年4月15日、石川県から家族に連れられて移住した。伏木から白山丸という船で、3日間も波にゆられて小樽に上陸し、汽車で早来まで来て、それから山道を荷物を背負いながら、小川や谷地原を丸木の上を波って歩いた。 
  

丸木橋(出典②)


川には自然に倒れたり、人が渡したりした1本橋があるだけで、満足な橋はなかった。途中まで1年先に移住して居た亀井吉次郎、杉岡伊助、中島市次郎、高橋与三郎等の若い衆が迎いに来てくれたが、いずれも雪やけで真黒な顔をしていたのには驚いた。何んと北海道の人は黒いのだろうと思った。 
  
先に来ていた人たちに迎えられて、各位の芦囲の掘立小屋に落ち着いたとき、これが自分らのこれからの住家であろうかと思ったら、あまりのみすぼらしさに自然に涙が出た。 
  
それこそ千古不易の深山であった。開墾するのに一番に生まれてから一度もきったことのない大木を切り倒して、夕方から積み重ねて上から火をかけて焼いたものである。その大木を積上げるのが大変であった。木のテコと人の力だけで積むのだから、なかなか大変なものだった。このように、毎日毎日大木を焼いて開いたのであるが、今から思えば大きな木はもったいないことをしたものだと思う。[4] 
  
 

魚が酔って手つかみで獲れたものだ

滝 尉助(75歳)

 入鹿別川は、下流は原野の少し低いところへ流れていたため、夏になると草が密生して、水があふれるので川下から丸木舟をかりて、それに5~6人乗って長柄の鎌で刈つてから上がってくると、水にもまれた魚が酔って、スズキやアカハラがたくさん飛び出して来て、手つかみで獲れたものだ。それで草刈りには毎年希望者が多かった。これも開拓当時の楽しみのひとつであった。[5]
 
 

木の根、草の実を食う日もあった

安髙安平(71歳)

  私は四国の伊予から明治20(1887)年、屯田兵として室蘭に渡り、明治29(1896)年に開拓を志して幌内に移住した。樹木や雑草の茂り合う谷地(やち)が畑によみがえることが唯一の楽しみだった。 
  
開墾は、1本1本伐木し、そのあとの根株を掘り返してゆくのだが、ヤブ蚊やアブにさされて苦労した。作物は小豆、大豆、お多福で、蒔付は拓いた土地に縄を張つておいて豆植鍬(くわ)でチコンチコン起しながら稲子を蒔いた。 
  
地味が肥えていたので反収は5俵あまり取れた。秋の取り入れには、小樽の商人が仲買人を使って買い集めるのだが、商人同士の競争がはげしかった。 
  

ダンヅケ馬による農産物運搬(出典③)


馬鈴薯は13貫俵で、80もの反収があり、澱粉工場を作つて製品を小樽に出荷した。産物のほとんどは駄馬に積まれ運ばれたがれが、10数頭の駄馬が荷物を満載して山坂をうねり行くさまは見事だった。 
  
開拓の居小屋は、カツラ、タモの木皮をさいて、尽根、垣に使い、床は割板の上に筵(むしろ)を敷いた程度であったので隙間もる寒風は、はだ身を刺し、吹雪の夜はフトンが真白くなり、小屋のいたるところに吹き溜まりができるという有様だった。 
  
道路も名ばかりの細道があリ、草を踏みつけ、やぶを分け、葉ずれの音や、枝のはじけ鳴る間を抜けて通った。 
  
川を渡るには胆振支庁が作ってくれた舟で渡ったが、明治31(1898)年、私立の学狡ができてからも、しばらくは渡船楊で子供を通わせた。 
  
この年には大水があって溺死人が幌内だけで9人も出るほどの悲惨なものだった。9月であったから、ほとんどの作物は被害を受け、常食のイナキビ、トウキビも食べられず、木の根、草の実を食う日もあった。 
  
この当時の病気にオコリが多く、急に休中が寒さに震えだし、あとから激しい熱がでて苦しんだが、オコリオトシという薬を飲むと数日でなおった。 
  
また当時の娯楽は祭文かたりを聴くことだった。祭文は今の浪曲のようなものであった。また虚無僧が尺八を吹きながら、部落に入って来て、歌と踊りで楽しませてくれたこたことが懐かしい。[6] 
 

 


【引用出典】
[1] 『厚真村史』1956・厚真村・45p
[2] 同上・45p
[3] 同上・73p
[4]  同上・45-46p 
[5]  同上・46p
[6]  同上・46-47p
 
【図版出典】
[1] 『厚真村史』1956・厚真村・45p
[2] 同上・46p
[3] 同上・94p